東方二次創作小説という営み

書いた人: ドナウの人

こんにちは。12月も早くも3日が過ぎようとしています。まさに師走。時の流れが殊更速く感じられるものです。

初めましての人は初めまして。学部1年のドナウの人と申します。おそらくこの記事がサイトに出ている頃にはドイツ語に苦しめられている事でしょう。去る先月の駒場祭では東大幻想郷 (GUT) のブースで応対をしたり、演奏会でヴァイオリンを弾いたりしていました。とりあえず一通り終えられたことにほっとしていますが、アリスはもう一度やりたいですね……。ですが社長代理氏の演奏は横で聴いていた身でも圧巻でした。GUTブースに来ていただいた方も、演奏会にお越し下さった方も、本当にありがとうございました。

さて、今回は音楽の話ではありません。駒場祭や例大祭で当サークルの合同誌を手に取っていただき、私の名前を見つけられた方はお分かりの通り、私はこのサークルでは主に小説を書いています。少数派、それも合同誌に寄稿しているメンバーの中ではただ一人、です。過去の合同誌を見てみると昔はそれなりにいたようですが、今ではめっきり減ってしまいました。私は事実上、絶滅寸前の (あるいは一度絶滅した?) GUT小説界隈を、一人で背負って立っているわけです。

ここではそんな状況下にある私が、二次創作小説というものについての、独断と偏見に基づいた私見、このサークルで数か月物書きとしてやってきた雑感を、つれづれなるままに綴っていこうと思います。よろしければ最後までお付き合いください。

小説という媒体

先ほども書いた通り、私はこのサークルで二次創作小説、一昔前の言葉で言えば、SS (Short StoryもしくはSide Storyの略) とも呼べるようなものを書いています。ZUN氏が創った東方Projectを題材にした二次創作活動の一環として、小説を書いているわけです。二次創作小説とSSは何が違うのかと言えば、人によって定義が曖昧なのではっきりとはしていません。個人的には「本質的な違いは無い。二次創作小説がSSを包含し、特にインターネット上に投稿された二次創作小説をSSと呼ぶ」としています。

SSはインターネットで、主にアマチュアによって書かれるわけですから、品質はピンからキリまであります。「くぅ疲」コピペのようなものから純文学にも劣らない力作まで、玉石混交です。どのようなものがあるか気になられた方は、Pixivの小説やハーメルンを覗いてみると良いでしょう。ちなみに私は投稿していません。別にそこまでして見てもらわなくても良いかなと……有名になったって出版されるわけでもないし……。

SS特有と言えるものは、「台本形式」と呼ばれる書き方でしょう。以下に例を示します。

霊夢(暇ねぇ……ん?あれは……)

魔理沙「おーい!霊夢!」

霊夢「はぁ……人がくつろいでるって時に……」

こんな感じです。先ほど例に出した「くぅ疲」の出所がまさにこれにあたります。VIPなど掲示板から誕生したスタイルで、書きやすいこともあって大きく広まりました。「SS」という言葉を聞いて、こういうものを真っ先に想像する方もいらっしゃるでしょう。

オーソドックスな小説の形式からは離れた形ではありますが、この書き方はとにかく、書きやすい。セリフさえ浮かんでしまえばそのままそれを書いてしまえば良いからです。とはいえセリフだけしか書かないということは、それ以外の描写を読者の想像に丸投げする、ということでもあります。作者の意図とは別の方向に読者が想像するということも起こりうる。それを避けようとしてセリフで情景描写を完結させようとすると、セリフが不自然なものになって読みづらくなってしまいます。

そもそも、小説は文字媒体です。イラストは視覚、音楽は聴覚に、直接的に刺激を与えることができますが、その点、小説は一見すると無味乾燥な文字の羅列です。第一印象で与えるインパクトは他の創作手法に劣ります。それらに並ぶような刺激を読者に与えるには、あの手この手を考えなければなりません。そう考えると、漫画やビジュアルノベルは小説とイラスト (ビジュアルノベルの場合は音楽も) の良いとこどりをした媒体と言えるでしょう。

閑話休題。つまり、ある小説がエンタメとして面白くあるためには、文章によって読者に五感への刺激を想起させることを、上手く行えていることが要求されるのです。もっと簡単に言えば、文章を読むだけで脳内にアニメが上映されるような文が、読者にとって読みやすいし、面白いのです。これを実現するには、台本形式では応えきれないところがあります。

そこで、地の文を書く必要性が出てきます。地の文の上手さが小説としての面白さを左右すると言っても過言ではないでしょう。セリフで述べられる以外の描写は、全て地の文が担うのですから。

試しに、先に挙げた例に簡単な地の文を付けてみましょう。

博麗神社の縁側で、霊夢は「暇だ」と考えていた。そこに魔理沙が現れた。
「おーい!霊夢!」
 魔理沙は言った。霊夢はそれに、
「はぁ……人がくつろいでるって時に……」
と答えた。

少し小説らしくはなりましたが、「つまらない」というのが読者の皆さんの感想だと思います。なぜか。単純に描写が不足しているのです。これがアニメならば、気だるげに魔理沙に応対する霊夢が、声も合わさって生き生きと描写されるわけですが、このような淡泊な書き方では、他の媒体で描写されるようなキャラクターの活気が、削ぎ落されてしまうのです。そう、「生きた」キャラクターで無ければ、面白くない。無論ずっと重厚な描写をする必要はありませんが、これはやりすぎです。

いかに作品世界を「生きたもの」とするか。私は小説を書くときに、それを第一に考えています。それに基づいて上に挙げた例を書き直してみると、こんな感じでしょうか。

桜の名所として名高い博麗神社の桜並木は、今年も見事に花を付けていた。満開の桜に見下ろされながら、霊夢は母屋の縁側に腰掛け、春の陽気に身を委ねていた。
 とはいえ、それを長い間続けていると飽きが来るのも事実。「暇だ」と思って伸びをしたとき、鳥居の向こうから一直線に向かってくる影が見えた。ものすごい速度で近づいてくる。人影であった。一秒ごとに時間が経つにつれ、姿は明確となっていく。それが誰か分かった時、霊夢は一つため息をついたのであった。こういう時は何か一波乱ある。巫女の勘がそう告げていた。
「おーい!霊夢!」
 魔理沙は鳥居の上空で箒を止め、霊夢の方に向かって手を振った。声の調子からして喫緊の用では無さそうである。
「人がくつろいでるって時に……」
 霊夢はそう呟きながら立ち上がって、魔理沙の話を聞いてやることにした。

書いてみるとやっぱり大変です。ですがまだまだ改善の余地はあると思います。

ここまでしてやっと、イラストや音楽などと同等のエンタメ性を発揮するためのスタートラインに立つのです。なぜ少数派なのかがもう分かった気がしますね。

小説を書いてきた雑感

さて、私はGUTに入部してからの数か月、物書きとしてやってきました。しかし、小説を書くということをメインにして活動しているのが、現時点では私のみであるということは、先に触れた通りです。どうしてここまで人気が無いのか……。

と、嘆くのはやめましょう。既に答えが出ています。

まず、前章で長々と述べたように、小説をちゃんとした形で書くには、手間がかかります。この情景を表すにはこの表現を使うとピッタリはまる、とか、ここで段落を分けた方が良い、とか、読みやすく、面白くしようとすればするほど、考える事柄は雪だるま式に増えていきます。

それに加えて、小説は一枚絵のように、「ある場面を一つだけ切り取る」だけでは作品になりません。起承転結の雛形に必ずしも沿わなければならないわけではありませんが、多少でも場面を連続させて物語の筋を作らないと、小説として成り立ちません。物語にオチがつくまで、延々と先述した作業を行わなければならないのです。一枚絵と似たようなことができるのは詩でしょうが、これに関しては私は門外漢なので省きます。

そもそも創作活動にはそれなりのエネルギーと時間が必要であることに加えて、小説となると上記のようなことを考える手間が増えるため、余計に敷居が高くなってしまうのでしょう。ちなみにGUTには絵師もあまりいません。というか、創作活動をメインでやっている人自体が少数派です。大半の人は原作をやり込んでいます。

では、なぜ私はそんな状況下でも書くのか。

それが、私が東方を最も楽しめる手段だからです。

そもそも私が東方に惹かれたのも、世界観やキャラクターの要素が主でした。私が東方に求めているものは、幻想郷という世界で、魅力的なキャラクター達によって展開される「物語」なのです。ですから私は原作を物語の一形態として見ていて、そこまでやり込んでいません。弾幕シューティング苦手ですし。どちらかと言えばゲーム本編よりキャラ設定.txtの方が私にとっては重要だったりします。

書籍を含んだ原作から供給される物語に刺激を受け、様々な空想、妄想を巡らす。そうしているとそれを形にしないではいられなくなってくる。頭の中のワンシーンで終わらせるにはもったいない、と。これで絵が上手く描けたら漫画でも描くんですが、生憎そうではないので小説を書いているわけです。

結びに

東方のたぐいまれな長所は、その楽しみ方の多様さにあると、私は考えています。無論私も、その恩恵を受けてきた者の一人です。この長所を活かし、今よりも様々な人々がそれぞれの方法で東方を楽しみ、共存できる空間を作り出すこと。それが新世代の部員である私、そして我々の仕事なのではないでしょうか。その一環として私は、GUT内における二次創作小説という営みの光を灯し続けようと思います。私のような人間の受け皿となるために。

なお、GUTではクリエイター不足に対して「描け (書け) 麻」という荒療治 (?) が採られています。それについての詳細は次週のnaoppy氏の記事に委ねることにしましょう。

次回、12月4日の担当は、いろんな面でGUTに多大な影響を残したはちじ氏です。乞うご期待。